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どうしてこんな年増女をと、誰に言われずとも自身で呟いているのだから世話はない。嫁は若いに限る。初婚なら尚更だ。若くて健康、多産系。顔がよければよろしくて、頭もよければ儲けもの。それなのに若くはなく、健康には違いないが決して多産系とはいえぬ血筋。容姿に自信があるかと問われればそれなりにと応えることもできようが、これに関して返答をするのは野暮、通り過ぎるとただの莫迦娘。おつむの出来はいま二つ。読書に四苦八苦するくらいなのだ。聖書を読破できたのは、たかだか数ヶ月前のことだった。
僧家の娘に相応しく、聖書を広げてはいる。文字を忘れないために、読みながら書き、書きながら読むの繰り返しをしているのだ。この城の官女たちはさすがは姫巫女様というが、その褒め言葉の裏にひっそりと、しかし悟ってもらわなければならぬ皮肉がある。砂糖菓子の世界に来たのだわと、つくづく思い知らされる。
部屋にいるのは自分ひとりだというのに、ため息をつくことすら憚られる空間というのは苦しいものだ。ため息のかわりに、髪を櫛ずる。この髪も嫁入りすれば垂れることなく、常に結われる。今までは括るだけであったけれど、もうそれも許されない。長すぎる娘時代は、明日、終わるのだ。
聖書の項を繰る。家を出るとき、弟に託されたものである。金と宝石で装飾された聖書は、嫁入り道具の中でも一際目を引くものであった。ひとは美事というが、書に触れることが出来る唯一の人間、彼女はそれがただの飾りだということを知っている。読み始めたときに知ったのだが。装飾過多ではないかしらと尋ねたら、弟は必要なくなったら旦那にやるといいでしょうと笑った。復興したとは言うが、嫁ぎ先はまだ張りぼての王国だった。
中身の聖書は古かった。日に焼けている。文字は判別できたが、挿絵は潰れていた。というより、色水で塗られた形跡があった。決して褒められたような真似ではなかったが、彼女はほほえましく思う。この書はきっと自分の知らない誰かが読み親しんだのだと思うと、心温かい。この子供じみた真似が施された聖書を、自分は誰に託すのだろう。そう思うと、余計に過剰装飾の聖書がいとおしく思える。きっとこれは肌身離さず置くのだろうと、未来の自分を易々と想像できた。
この聖書は読み始めたばかりであって、頁数もほんの数枚捲っただけである。これを読み終えることが出来るのは、何ヶ月後のことだろうか。半年掛かるかも知れない。朝と、夜と、隙さえあらば読んだとしてと計算するが、これからの新たな生活がどんなリズムになるのか想像もつかないため、計算はまるで無理だった。でもなんとなく、遅くとも半年で読み終えるようにしよう、と決める。終わったらまた読み返す。次は半年の半分を目指して、次の次はその半分を目指してと。
(目標は諳んじることね。冗句に引用できるぐらいにはなりたいわ)
それはとても長い道のような気がした。
(張り合いが出るってものよ。うん、そうだわ)
これから砂糖菓子の世界に入るのだもの、と聖書を抱きしめて、垂れた髪を梳きながら、考える。
聖書を離し、再び読み始める。そして書きはじめる。間違いがないように、何度も確かめながらの行動はとてつもない労力が要った。集中力ぐらいしか褒め称える点がないと自身では思っているので、放り出す訳にはいかなかった。
塵屑のような紙切れに、時にはお菓子の包み紙の裏にでさえ文字を綴った。
もう少し前は、一刻も早く覚えなくてはと焦っていたが、今はその焦りはない。理由は心境の変化だろうと思う。そしてそれはきっと間違いではないはずだ。
(やっぱり結婚って人生の一大事なのねえ)
こんなことで、やっと結婚の感想を持つのであった。
丁寧な癖のない文字であった。模写されやすい、手本書きをそのまま写したような文字である。
内容も、手本書きをそのまま写したようなものであった。面白みのひとつもなにもない、事務処理専用の書面にしか見えない。
「だが、懸命だったんだろう」
この堅苦しい書面から、それだけを読み取れば充分であるとばかりに、笑った。独特の、抑えたような皮肉めいた笑い方である。
「名前だけは自由に書かせてもらったようだな」
「とても伸びやかで、薫風のような文字でしょう」
「においはしないぞ」
「だからあなたなんかに嫁がせたくなかったんですよ」
文句を垂れる小僧さえ、かわいらしく見える。
「いつでも離縁できるんですからね」
「しない、しない。太陽が三角形になってもしない」
「四角形になるかもしれないじゃないですか」
「お前も疑り深いな。ないもんはない」
疑うのが商売です、と小僧は言う。口を尖らせている。ああ、かわいい…気がする。
明日からこの小僧と縁続きになる。義理だが弟と呼ぶことになる。この小僧のことだから、きっと自分が死ぬまで兄などと言うこともないだろうと思うが、それでもよかった。それもまた面白いと思う程度だ。
自分は浮かれている。明日が待ち遠しい。今日のこんな気分も勿体無いような気がするが、明日が待ち遠しい。しきたりやら何やらで、もう彼女とは半月近く会っていない。式前に顔を合わせるのは不吉だというのだ。何が不吉だと思うも、万が一ということを考えてしまうのだから、自分もおかしい奴だと思ってしまう。逃げ道なんぞ用意しなければいいのに、昔の癖で作ってしまうのだから始末が悪い。
やれやれ、俺はやはり傭兵だ、この国を治めよと派遣された傭兵だ、と笑ってしまう。
「ぼくは根に持つ方ですからね。一生掛けて償ってください」
「ああ、わかった、わかった」
「姉さんと離縁するときは、王妃の称号もつけてエッダに返してください」
わかった、わかった、と小僧をたしなめるように過ごしてしまうところだった。
「持参金の三倍返しは当然ですが、王妃の称号もつけてください。あなたの伴侶を辞めても、あなたの国の女王で」
「……何を、考えている?」
「姉さんの幸せを」
小僧は真剣だった。
「何を言っている」
「ぼくができることを」
がさりと音を立てて、山のような書類の一番下から、代わり映えのしない形式の契約書を取り出す。サインを、と小僧は突き出す。
書面には、形式に則って、小僧が今言ったことと同じことが記されている。
「なんだこれは」
「契約書ですが」
「結婚契約書の前に、これを書けと?」
「できれば」
――ぼくが不安で、と小僧は言った。
「このごろ、よく視えないんです……霞がかって、何もかもがあやふやで」
小僧は、何かを見透かしたようなかわいくない子供だった。その何かとは、未来だとかというものだという話である。確かにそうかもしれないと、思う節はあった。小僧は常に前もって山に登っている。そして後から山に登った連中に、水を差し出すような奴だったから。
「視えない期間が続くことは前にも何度もあったんです。それならそれで構わない。だけど、今回は違う。よく視えない。視えるようで視えない。こんなことははじめてで、不安でたまらない」
「その……はじめて視えなくなったときも不安になったんだろう? 杞憂だろう、きっと」
「暗闇は怖くない」
息を吸うと、小僧は俯く。
「なにかわからないから、怖い」
覚えがあって、自分も、怖くなった。
日付が変わった。もう今日になった。
それを確認すると、無造作に外套を羽織って外に出る。夜警の者に直ぐ戻るとだけ言い、早足に離れる。少し、駆けた。
「おやめくださいませ、おやめくださいませ」
泣いて縋る侍女たちを振り切る。静かだった外宮が一気に賑やかになってしまった。幾つもの灯火が集まり、悲鳴交じりの声が上がった。
それらをまとめて踏みにじるようにして、ずんずんと歩いていき、そして扉を開ける。扉は容易に開いた。呆気にとられた。鍵が掛かっているかと思っていたのに。
退がれ、と女どもと夜回りどもに命じる。彼らは渋々、かなり渋々と戻っていった。扉を潜り、ヒッ、と抑えた悲鳴を上げる侍女が目に入る。これにも退がれと言う。侍女は上着を引っ掴むのも忘れ、ばたばたと入れ替わるように出て行く。
これで、二人きりになった。
部屋は暗い。扉を閉めると、さらに暗くなった。
(成程。暗闇は怖くない)
ひとの気配があるからだろうか。ここがどこだか知っているからだろうか。
ぼんやりと思っていると、不意に目に光が差す。月光だ。カーテンが捲られたのだ。月光はすぐに遮られる。
「やると思った」
長細いランプを持ち、近づいてくる。ほのかな灯火に浮き上がる様は、なんとも儚い。
「馬鹿」
少しだけ困った顔をしている。しかし、怒ってはいない。
「泣いてたわ。かわいそうに」
後先なく行動するのは悪い癖だわ、と言う。
でも感情のままにっていうところは好きだわ、と続けて言った。
「もう、今日だ」
「屁理屈。でも、そうね、今日だわ。まだ式はしていないけれど」
「契約書なら持ってきた」
明日、大勢の前で名前を書き入れるはずの革張りの契約書を小脇から出した時には、さすがにぽかんとした顔をされた。すぐに、困った顔になり、やがて笑った。馬鹿、とやっぱり言った。
「三十過ぎた男がやることじゃないわよね?」
今回だけよ、と言いながらランプを持ったまま背を向ける。インクとペンを探しているに違いない。
「どこに仕舞ったんだっけ……」
暗い中、ランプの明かりだけを頼りに、探している。後姿が、白い衣の後姿が、ゆらゆらと揺れている。
黒い霧の中にいるようだと思った。黒い霧に遮られて、よく視えない。行動はわかるが、好意はわからない。なんとなく――小僧はこんな気分だったのだろうか、と考える。確かにこれは不安だ。黒い霧が、はじめから何もなかったよと言わんばかりに彼女を消すかもしれない。ふっと灯りが失せれば、一緒に失せてしまいそうな不安は、不満に似ていたが、やはり純粋な不安には間違いなかった。不満はこんなに、切なくならない。
あった、と小さな声がする。
筆記道具は華麗な装飾箱に収まっているらしい。金と宝石が嫌味のように散らされた箱を手にして、戻ってきた。余程嫌そうな顔をしていたのだろう、彼女が笑った。
取り外せるのよ、と言った。ランプを小さな卓の上に置くと、上蓋を開ける。上蓋を開けると、磨かれた木箱が顔を出した。臙脂色の、よく釉薬が乗った質のよい、上品な道具箱である。さらにその箱を開ける。漸く、インクとペンが出てきた。
「なんでこんな仕様にしたんだ」
「お金に困ったら売りなさいって」
嫌味な小僧だ、という顔をしたのだろう。笑われた。
インク壷を開封すると、インクにそっとペン先を浸す。ほんとに、書くの、という顔で見上げられた。
「書く」
「でも、アレス、自分の名前覚えられないって言ってたじゃない」
「……多分、間違わず書けると思う」
「なにそれ」
ペンを手渡される。立ったまま、革張りの契約書に名前を書いていく。自分の名前は確かに長い。不必要に長い。
書き終えた後、目を離し、遠くから綴りを確認する。間違いはないはずだ。彼女にどうだと確かめるために見せると、ここしかわからない、と言われた。アレスの部分しか読めなかったらしい。
「アレスの字は下手。崩しすぎ」
「アレスが読めればいいだろうが」
「じゃあ、わたしもそれでいいよね」
「リーンが読めればそれでいい」
「そう?」
革張りの契約書と、ペンを渡す。乾ききってないから気をつけろと言った。彼女は恐る恐る、革張りの契約書を受け取る。
そしてゆっくりと文字を読み始めた。小さな声で読んでいる。時々詰まっていたが、それでも間違いなく、契約書を読んでいた。読み上げると、もぞもぞと神聖な気分が持ち上がってくる。
読み終えた後、ゆっくりとインク壷にペンを落とし、インクを含ませる。
「ま、間違っちゃっても笑わないでね」
「絶対笑う」
「意地悪」
笑ったお陰で、肩から力が抜けたようだった。
弟から、薫風のようなと言われた文字が、書面に描かれる。
伸びやかで、読み易い、女性らしい細い線。それで、リーン・シルヴィエ・ディ・エッダ、と正式な名前が綴られた。
大きく息を吐き、どう、と見上げて尋ねられた。どうもこうもない。書名は終わった。司祭はいないが、契約は成立した。黒い霧は相変わらずだが、霧に向かってさえ所有権を主張できる関係になった。それだけのことだ。
「おめでとう、俺の嫁さん」
「おめでとう、わたしの旦那さん」
大変に照れくさい。変に顔が引き締まった。笑われた。
「宿六になるか、石潰しになるか、楽しみにしてるから」
「俺は恐妻家になるつもりはないぞ」
言ったわね、と笑う。
道具箱を仕舞い、ランプの傍に落ち着ける。やけに宝石がランプの光でゆらゆら煌いている。不思議な光景だった。
そういえば、とついでに派手な聖書のことも思い出した。愛してるだの、君を幸せにするだのと続けることが恥ずかし過ぎて、その聖書のことを持ち出した。すると、あれね、と今度は寝床へ向かい、枕元に手を伸ばす。ひょいと出てきたのは、間違いなく嫌味ったらしく装飾過多の聖書だった。
聖書を持ち、これも外せるのよ、と言う。歩きながら、彼女は外装を外し始めた。柔らかい皮に装飾を施しているらしい。なんとも手の細かいものだ。これも困ったら売るのかと言うと、そうね、酒代ぐらいにはなるんじゃないかしらと返された。自分はそんなに飲まないのに。
外装をとると、古ぼけた本でしかない。とんだこけおどしだ。文字が金箔で打ってあるのかと思った、と言うと、うちはそんなに成金趣味な人はいません、と怒られた。
「まだここまでしか読んでないの」
ふうん、としか返せない。聖書をまともに読んだ覚えは、幼少時を除いて全くないのだ。
素直にそう言うと、あら、じゃあ毎晩読んであげると言った。早速旦那扱いされていない気がする。契約したのに。
「一日一段を読んでいけば、半年後くらいには終わるんじゃないのかしら」
「気の長い」
「アレスが気が短いの」
一項一項、捲っていく。例の色水の項も見た。顔を合わせてほほえむ。
彼女の手から聖書を取る。大まかに頁を回していく。文字は読んでいない。絵も見ていない。ただ、ざくざくと項を重ねる。隣の彼女は微苦笑で見上げている。
最後まで捲った後、手が止まった。
なに、と彼女が爪先立ちになって覗こうとしている。
空いた手で、彼女を抱き寄せる。わあ、と品は感じられない声を出した。できるだけ強く抱いて、聖書を見せる。正しくは、聖書の最後の項。真っ白い余白。正しくは、上半分が黒い、もと余白。
彼女は戸惑っていた。しかし、すぐに黙った。
「私の愛する君へ」
彼女の声は震えている。肩も震えている。
自分は、義理の弟のように未来は視ないが、これくらいのことは想像できる。彼女はきっと泣く。だから抱き寄せた。
「決して尽きぬ愛を」
――『私の愛する君へ 決して尽きぬ愛を』
――『クロード シルヴィア コープル』
それは一族の伝言が綴られている余白であった。始めに、これを贈った誰かが書き込んだのだろう。そして贈られた人間がその下に同じように書き込み、家族も名を連ねたのだろう。嫁ぐ娘に、遠方へ行く息子へ贈るために。
この一連の伝言の最後に、この文はあった。最後の名前だけは、インクの色が濃い。最近書き込まれた証拠だった。
「クロード公の字はコープルに似てるな。右肩上がりの硬い字だ。でも読み易い。シルヴィア殿の字は、習い始めのお前のとよく似てる。伸び伸びしていて、丁寧で、気を遣いまくった緊張した字」
一滴、彼女の涙がこぼれた。彼女は慌てて涙を拭き取ろうとしたが、止めさせる。
「ここに今度は俺とお前の名を入れよう。だから、こういう一文を考えておいてくれ。俺は字が下手だから、名前だけ書く」
静かに、うん、と頷く。また涙がこぼれた。
涙がこぼれた余白を見ながら、義理の弟に教えてやらねばと思う。
あやふやなのも、形がわからないのも、こんな風な視かたがあるんだぜとでも言おうか。
かたちなきものは怖くないのだと。
それは、未来のかたまりなのだと。
■初々しい晩婚
アレスとリーンは、聖戦世界ではかなりの晩婚。
という妄想で、こんなんできました。
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