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曇りの無い完璧なダイアモンドのように踊り、そしてほほえむのよ。お姫様だって大人になるのだから、大人のつんとしたところも見せなくちゃ駄目よ。いつまでも少女のままではいませんっていう決意のこもったほほえみよ、ただ笑うのじゃなくてね――お母さんは、間違ったことは言ってない。そう、そのように踊るべきだったし、あたしもそういうように踊りたかった。圧倒的な幸福なんてものがあるとは思えないし、あったところで見せ付けるようなことはしたくない。でもそれを見せ付けるのがダンサーだといわれると言葉に詰まる。それで、それだけでなにが伝わるっていうのよ、と言いたくても言えない。幸福は、間違いなく必要な要素だから。
そのあたしの、あたしとお母さんのオーロラは、負けた。価値がないと、判断された。あたしが悪い。お母さんは悪くない。あたしが悪い。
「ミスもなく、怪我もなく済んだもの……誰が見ても一番のオーロラだったわ。きらきらしていて目が痛くなるくらいによ。クロードさまがいらしたら拝み倒しちゃうくらいにきれいだったもの」
お母さんは、元ダンサー。今はただのお教室の先生だけれど、本当に凄い人だった。あたしはお母さんのこと、あまり知らなかった。みんながお母さんを褒めるたび、そんなに持ち上げてくれなくってもいいのに、なんて思っていたぐらい。お母さんの記録映像を見たのは数ヶ月前の事。本当に凄いのだと知ったのは、このとき。
あたしは全力を尽くした。あたしにできる総てを出した心算だった。でも、評価はされなかった。ひとりだけ、賞なしだった。お母さんを、汚してしまった。
「さあ、リーン。次はどのコンクールにしようかな。あ、その前に、アイスクリーム食べに行こうか。何年ぶりかな。ねえ?」
――君はミュージカル・プレイヤーになりたいの?
アクトレスではなく、プレイヤー、とまで言われた。それが、あたしの評価。欲しかった言葉はなかった。
「……そんな顔、しないで。おうちに帰ろ?」
「うん……」
「お稽古場に帰ろ」
「うん」
「いっぱい、踊ろうね」
「うん……うん」
泣くものか。絶対に泣くものか。
悔しさも、惨めさも、なにもかもは、稽古場に持って帰らなくちゃいけない。稽古場以外でこぼす涙に価値はない。
「ごめんなさい、お母さん」
「どうして謝るのかな」
お母さんは、あたしを抱きしめてくれた。本当に、お母さんは凄い人だ。お母さんの名前を汚したっていうのに、お母さんの娘なのにお母さんの十八番が上手にできなかったのに、お母さんの夢をかなえることができなかったのに。
あたしは――お母さんの最高傑作でありたい。お母さんの自慢でありたい。常に誇れる娘でありたい。ヴィデオを見たとき、心の底から思った。このひとの娘に生まれたことは奇跡以外の言葉では説明できないって。このひとの表現したかったことは、今の自分が表現したいことと完璧に重なることも。
「行こう。今日はアイスクリームを食べよう」
「……シャーベットにしようよ」
「そうだね。そうしようか」
敗者は音も無く去る。誰よりも早く、あたしたちはホテルへ帰った。途中、お母さんは偉そうな人たちにパーティーに誘われていたことが、あたしは申し訳なかった。行っていいんだよ、帰ってストレッチして寝るだけだもんと言うと、お母さんはシャーベットが食べたいんです、と言ってタクシーを捕まえた。
「目ン玉節穴の奴らと一緒に食べる筋合いないもんね」
お母さんは、怒っていた。
それが、死ぬほど惨めな自分を慰めた。……あたしはつくづく、駄目な娘だと思う。
【振付師とその妻】
所詮は、運だ。
その運は、いつもよりパがジュデがという話じゃない。審査員の問題だ。審査員の好みにおのれがどれだけ合致するか、それは運だ。技術が完璧でも、それを機械作業と言って嫌う奴は居る。溢れる芸術性を、くどいと言って切り捨てる奴も居る。
運がなかったのだ、あの№17は。
「どー思う」
「№17ですね」
「だろ」
「表現力の凄まじさを掴みきれなかったようですね。少女でも女性でもない乙女をよく表現していたと思います」
「おれもそー思う。基礎もあったし、見栄えもする」
「ですが、減点せざるを得なかった彼らの意見もわかります。未完成過ぎます――なんというか」
「雰囲気がな。完成品の匂いがしなかった。だがあれが№17のしたかったことだろ。とゆーか、ああいう場面だろ、あれは。おれはそー考えるし振付ける」
「初めから最後までオーロラは大人の女性、ということでしょうね」
「かー! 見飽きたっつの、そんなのは」
安酒場で安酒をグラスにどぼどぼ注ぎ込む。
「なにが足りないと思った?」
「……パートナーですかしら」
「だ・よ・な! おら、フュリー、ケータイ貸せ」
安酒を煽りながら左手を出すと、すぐに電話が乗る。
すぐさまリダイアルの一番上に電話をかける。呆れた嫁は肴のソーセージを切り分け始めた。そうしないとおれが丸呑みしようとする癖を知っている。
「……つながんねえ」
「まだ稽古場でしょうよ。コンクールが近いですもの」
「くそ! おれと違ってくそ真面目に育ちやがって! おれは呑みに出掛けてたぞ、この時間!」
「褒めるならもっと判り易く褒めてくださいな」
「うるせー」
今日のコンクールの参加者名簿を見て、それこそ初恋の少年のように胸をときめかせていた――と彼女が知ったらどう思うだろうか。きっと、思い切り顔をゆがめて、相変わらずしつこいわねえ、とか言うのだろう。まあ、その通りでしつこさには定評がある。そのしつこさのお陰で、彼女のパートナーの座を射止めたのだ。三年で棄てられたのだが。
同じ年頃の息子が居てよかったと、そしてその息子がくそ真面目に古典一筋でよかったと、祈りたくもない神に感謝したものだ。息子を出すコンクールを探していて、偶然、見つけたのだ。死ぬほど嫌いな人間と同じ姓を。
「どー思う」
「セティが№17のパートナーになったら、ですか?」
「当然」
「セティとレイリアはいいカップルだと思いますけれどね」
「いいカップルだよ。レイリアもおれ好みに教えたし」
「満足しませんか」
「しねーな。補完しあう関係なんぞつまんねえよ」
「では、私の息子と彼女の娘はどんな関係になるかしら」
「決まってる――殴り合いだ」
温和な息子と気の強い幼馴染。あいつらはおれの知らないところで上手に渡り合う術を見に付けていた。そんなもん、鳥のエサにもなりゃしねえっつうのに。
自分と彼女のように、徹底的に戦いあうことから始められる関係、それがベストだ。
「まったく。困った人ですね」
「ゲージツ家ってのはこんなもんだ」
「特に振付師は、ですか」
「そーだろ」
「概ね、その傾向があることは否定しませんよ」
再び、リダイアル。コール音ばかりが続く。
残っていた酒をグラスに開け、それを一気に飲み干す。これから稽古場に向かわなければいけない。そして息子をひっ捕まえ、ぜってえに金賞獲れと厳命するのだ。あの物分りのよさそうな顔は、しれっと言うだろう。ええ、その心算ですが、なんて。
本当にかわいくない息子だ。誰の子だ。俺の子か。
【パートナー】
一時間だけ、という「お願い」がフロントから伝えられた。これから帰国って時に。
異国の言葉があまり多くわからないリーンは、大意だけ掴み、変に気を遣ってくれる。待ってるから、と。確かに事前に取ったチケットは帰国時間が遅すぎるから、空港まで直接行って空席を抑えてすぐ帰ろうと思っていたので時間はある。
「昔の知り合いがどうしてもって。まったくもう」
「いいよ、お母さん。ホテルのお庭、見たかったし丁度いいから。それにお土産も買ってなかったし」
「そう。じゃあ、忘れ物ないようによろしくね。お父さまとコープルくんにも買っておいてね」
「うん。外に屋台のお土産やさんがあったからそれを見て、お庭にいるから」
リーンは笑ってロビーから遠ざかる。なんていい子。なんて強いのかしら。昔のあたしだったら大泣き中よ。目を真っ赤にしてさ。なのにあの子は我慢強い。家に帰って、地下の稽古場に下りてから、泣くんだろう。昔のあたしみたいに、大声で。
あたしのお人形さんみたいに育ててしまった。ほんとは、あたしみたいじゃなくて、普通の女の子でいて欲しかった。好きなものを食べて、好きなものを探しに好きなところへ行って……あたしの憧れの総てを叶えてくれるような、普通の女の子になって欲しかった。
でも、リーンは踊る。あたしと一緒。理由なんてなかった。理由が知りたいなら聞いてみればいい。リーンは応える。ほほえみだけを浮かべて。それが総ての答え。あたしと同じ答え。
「後悔なんかしてないもん」
ロビーのソファに腰掛ける。ティーサロンまで出向く気力はない。というか、彼とお茶を飲むなんて真っ平だ。奢りのケーキだって食べてやるものか。あの薄情者め。
「リーンが一番だったもん。あのくそ親父どもと、ついでにレヴィンは地獄に落ちればいいんだ」
「そう思います」
唐突な相打ちに顔を上げる。……知らない若い子がいた。こんな子、昨日のコンクールに出ていたっけ?
身なりの整った男の子は笑った。というか、ほほえんだ。
「えーと、君は? おばさんをナンパしに来たのかな」
「ええ、あなたをナンパしに来ました」
「あらやだ。……もしかして、レヴィンの?」
「はい。似ていますか」
「似ているも何も――手口が一緒よ、坊や」
思い切りため息を吐いてみせると、坊やは動揺したようで、頬をあかくした。あーあ、レヴィンなら恥ずかしげもなく言葉が続くんだろーけど、フュリーに似たのかしら?
坊やに隣に座るように言うと、素直に従ってくれた。
「あたしのママを口説いたのよ、あのひと。ママったらその気になっちゃって、あたし、売られちゃったのよねー」
「そ……それは知りませんでした」
「別にいいわよ。で、あなたもあなたのパパとお願い事は一緒なのよね? 確認するけど」
「……正直にお話しすると、私にはすでにパートナーがいます」
「ふーん。じゃ、とりあえず声掛けただけ?」
「はい。行け、と父が煩くて。父の名前を使ってお呼び立てして申し訳ありません。私はパートナーに満足しています。彼女は私にとって最高のパートナーだと思っています」
「そう。フュリーに似て律儀な子ね」
かわいい子。不器用なところはフュリーに似ているかもしれない。彼に似ているところなんて顔しかない。ちょっとキリっとした時の顔に似ていたから、すぐにわかった。
「あなたのママによろしくね。パパはともかく」
「父はあなたの公演でカラボスを踊りたいと毎年ごねています」
「口だけは達者ね、相変わらず。……それじゃあね、セティくん。娘を待たせているから」
「お会いできて嬉しかったです。ミス・ヴィヴィ」
「ミス、ねえ。まったくもう。シルヴィアで結構よ。ヴィヴィと呼びたかったらレディをつけなさい」
喝采を浴びるときの名前は、ヴィヴィ。
そう、あのときのあたしはヴィヴィだった。だから引退した今でも昔のあたしを褒めるならば、それはヴィヴィ。でも今のあたしは、シルヴィア。街のバレエ教室の先生。
「デビューのときはチケットを頂戴ってあなたのパパに言っときなさい」
はい、と坊やが頷いたのを見て、あたしはさっさと立ち上がってロビーを出る。
ああ、早く帰りたい! そして地下の稽古場に駆け込みたい! 全部が終わったら、きっと物凄く良く出来ただんな様と息子が何も言わないで、あったかいお茶を用意してくれているはずだから。そしてもう一度、母娘揃って大泣きして、終わりにするのよ。
稽古場には、後悔なんてものは持ち込んじゃいけないものだから。
【フレンズ】
進路希望の用紙に、第一希望へ職業バレリーナ、第二希望にはプリマドンナ、第三希望でエトワール――見事なおちょくりっぷりに皆で目を合わせたものでした。なにせ、担任の教師は芸術音痴、単語の意味さえわからないはずでしたから。
高校に行かないの、とパティさんが訊くと、間髪入れずに、ウンと頷くのです。
「時間がないもの」
あっさりと言うのです。
「通信制の学校には?」
有名なバレリーナがそのようにして勉強していたことを知っていたので訊ねると、悩み顔で、勧められたけれどと言いよどみました。
「お母さんも通信制の学校に入って、五年掛かったけど卒業したって言ってた。お父さんもそれでいいよって言ってくれたけれど」
「ならいいじゃないの。腰掛学歴で」
「あら、いっそ外国のバレエ団に留学したら?」
「それが一番いいんだけど」
「そーよねえ、外国のバレエ団て学校付属らしいよ」
趣味バレエではなく、特技バレエでもない。その道がどんなに険しいか、小さな頃から一緒に教室に通っていた自分がわからないはずはありません。ただ自分はひとより弱い身体を健康に近づけるためでした。
「コンクール、この間の落ちちゃったし……通信制なら何も来年入らなくてもいいし……」
微苦笑する彼女に、同じ教室仲間のわたくしたちは同じような表情を浮かべました。
みんな、彼女が金賞を獲って外国に留学するものだと思い込んでいたのです。金賞ではなくてもスカラシップくらいはもらえるものだと。彼女は自分たちと違い、本当に違い、まさにバレリーナになるために生まれたひとなんだと思っていたのです。
その彼女が、たったひとり賞なし、スカラシップももちろんなし。バレエ雑誌の隅っこの方に、落選、と短い記事が載ったのです。
「相談、してみたほうがいいよ。あ、もちろんあのアホ担任じゃなくて、リーンのお父さんとシルヴィア先生に」
「うん」
「まだ春だし、急がなくてもいいと思うよ」
「そうだね」
「普通の高校に通うつもりは?」
「家から近くて、厳しくないとこなら考えるけど」
「うーん、それだとあそこかなあ。えーと、制服の襟が緑のとこ」
みんなずっと一緒、だとは思います。
進学先がそれぞれ違っても、それは将来の夢がひとりひとり違うように、ただそれだけの違いでしかないと信じます。
わたくしたちは友達です。だから、だれかの夢はわたくし自身の夢です。彼女がパレ・ロワイヤルで踊るとき、わたくしたちも踊るのです。心で、彼女の側で、多分群舞か何かで。
【味のないチョコレート】
相変わらず、細い。太ったの、と不機嫌になっているが、どこをどう見れば太った身体に見えるのか、さっぱりわからん。なおかつ、太ったと自己申告するから太ったであろう箇所を言うとさらに怒るのは何故だ。俺は肯定しかしてない。
「練習時間が減ってるの」
「なんでまた」
「受験勉強」
「お前でもするのか」
「しますっ」
俺と、こいつの関係は、知り合いだ。
俺とこいつの間には、こいつのハトコとやらがいる。そのハトコと俺が同窓生で、興味もないバレエの発表会に拉致されたことによって、知り合った。知り合っただけならいいが、俺のバイト先はこいつの通うバレエ教室のすぐ真向かいにあるコンビニだ。
決まって暇な時間帯に来るから、こうして話す。
「どこ第一志望だ?」
「わかんない」
「なんだそれ」
「頭悪いの」
「バレエばっかやってるからだろ」
「うん、そう」
馬鹿にしているのに、馬鹿だからこいつは笑う。
「あ、これ、あげる」
「なんだこれ」
「お土産。暫くバイト来てなかったから渡せなかったの」
「中間試験ってのがあんだよ」
「ふうん。中身、チョコレート。多分、美味しいと思うよ」
「多分てなんだ、多分とは」
「食べてないからわかんない」
ほんとにこいつは馬鹿だ。
「じゃあ、またね。お仕事頑張って」
ひらひら手を振って、ミネラルウォーターを引っ掴んでとっとと教室に戻っていく。ちょっと前までスポーツドリンクだったけど、カロリーを気にしてんのかと思う。
残されたお土産とやらを見る。改めて馬鹿だと思う。
「……でけぇ消しゴムだな……」
どうやって騙されてきたのか、知りたいくらいだ。
【同盟者】
一宿一飯どころか、シルヴィアママにはたくさん食べさせてもらってる。なにせ、父一人息子一人の生活。その昔、ご近所に引っ越してきたばかりの若くて細っこいシルヴィアママは、いいからウチでご飯を食べてと父とぼくとを引っ張り込んだ。
大所帯だからいいのよ、とシルヴィアママは繰り返したことをぼくも覚えてる。シルヴィアママはバレエ教室を開いたばかりだったけれど、彼女を慕う人間が毎日大いに集まり踊り、ささやかな夕食を用意しているのだ。それは今も変わらない。
だから、ぼくら親子にとってシルヴィアママと、それを寛大に迎えてくれたクロードおじさんは命の恩人に違いない。(シルヴィアママはなんだかいつまでたっても若いから、おばさん、という呼びかけがひどく似合わないんだ!)
「いやー、父さんが人並み以上に稼ぐくらいしか脳のない男でよかったー」
「だろー。父さんもそう思うぞ」
親子揃って覗くのは、父のノートブック・パソコン。
「営業」の成績がわかり易くグラフとなっている。
「再来月の会場は抑えたの? とゆーか抑え済みだよね」
「もちろんだ。キャパ1200にしたらシルヴィアに叱られたが私は気にしない」
「馬鹿だねー。前と同じホールでよかったじゃないか。キャパ600で」
「教室創立15周年だぞ。大々的にやるべきだ。第一、シルヴィアの教室は小さいけど有名だし」
「有名にしたんでしょ、父さんが」
「いやあ、営業職は天職だよ。セリスも大概向いてるぞ」
命の恩人のご近所に、父はその人脈を駆使しての営業をしまくって恩返しをしている。お陰さまで、父の取引先の奥様方は毎日ケーキを食べに行くことよりも美容と健康が手に入るバレエ・レッスンに夢中になり、その影響で娘さん方が入門し、引きずられるように兄弟たち、果てはお父さん方までがバレエをかじるようになった。
もともとシルヴィアママのキャリアが輝かしいということもあって、たった五年くらいでここいら一帯で一番有名な教室になった。電話帳でバレエ教室を調べて一番大きな広告が出てるのが、シルヴィアママの教室だ。父がお歳暮代わりでと言って載せた。お陰で最近は、習い事をなにかしたいとか思っているオフィスレディの皆様からの問い合わせが殺到している。
「チケット、捌ける?」
「雑誌社に体験入学のススメとして、発表会を推しといてってお願いしてある。安めの価格設定にしてあるから、そこそこ出るかもな」
「ぼくも学校で捌くよ。女の子はダイエットと美容に効果あるものと言えば、結構なんでも食いつくし。日曜の昼間で、安いし」
大きくなることとか、立派になることとか、あんまり考えてないのよね――シルヴィアママは言う。
踊りたい人が踊れる場所があればいいなあって思ってただけなんだけど、シルヴィアママはちょっと困った顔で続ける。無欲な人だ、と父は言う。ぼくも思う。そしてそれは間違ってはいないと思うから、最大限、力になりたいと思うのだ。
そう、バレエってパトロンが付き物じゃあないか。でも父さんはパトロンできるほど稼いじゃいないし、貯金も、見栄もない。だから精々できることをする。
「リーンちゃんのクララが見たいなあ」
「今年は青い鳥だってよ」
「眠りか。オーロラじゃあないんだ。残念」
いうなれば、同盟者みたいなものさ。
【金色の翼】
可能性とか、才能とか、恋焦がれて仕方ないものを――金色の翼、と彼は言う。
金色の翼をはためかせればいいだけだっていうのに、どうしてお前達はばたばたと醜く手足を動かそうとするんだ、と。どうしてわからないのだろうとため息をつくし、わかった振りをする人間に対しては冷たい視線を寄越す。
彼に愛されるということは、すでにひとつの才能なんだろうと思うようになっている。振付師になって十年、彼は常に最前線で喝采を浴び続け、きっとこれからも喝采を糧に生き続けることだろう。その彼に一種の親愛を示される、それは幸運なことで、運という言葉を使いたくなかったら、やっぱり才能としか言い様がないと思うのだ。
「あの人の言うことは、論理じゃあないから」
「感情的であることは否定しないわ」
「よくもまあ、ああやって生きていけるものだと思うさ」
パートナーは、いつもこういうように笑う。王子様のほほえみだ。ロットバルトになった瞬間なんて見たことがない。常に、王子様。
「レイリアはあの人の言う、金色の翼を見つけた人だ」
「あら、そう? あたしはいつになっても金色の翼が見えない」
「自分の翼を見ながら飛んでいる鳥を知っているのかい?」
「……いないとは言わないわよ」
幼馴染はにこにこと笑っている。
金色の翼を持っている彼は、羽ばたき方をこの頃覚えたらしい。彼の父に似て、彼の要求は具体的なものが少なくなっている。彼自身がそれに気付いている様子はないのだから、可笑しいことこの上ない。
パーフェクトなパートナー。彼と踊っているときにだけ、金色の翼を信じられた。あたしの金色の翼は恐る恐る伸びてきて、羽ばたいていいのだと確認を取ってから動き出す。だから大抵、彼の動きについていけなくなってしまう。
どうしたんだい、レイリア。
この頃、そんなことばかりが続いている。
「あなたは」
「うん?」
「パーフェクトよ」
「ありがとう」
パーフェクト。
そうよ、あたしもパーフェクトになりたい。そして、そのために餌を与え続けられなければならないの――喝采をわたしに与えなくてはならない。
「君もパーフェクトだよ、レイリア」
「嬉しいわ」
「私たちはパーフェクトなカップルだ」
『あるじゃん、そこに』。
彼の父が、私の師が言った。金色の翼をはためかせるということは、多分、欲望と支配欲の成長を指すのだろう。向上心というものはそこから生まれる。嫉妬という奴も飛び切りの起爆剤だけれど、あれは人生を簡単に壊す。見ていてわかる。だから、翼は金色でなくちゃいけない。
「先生は?」
「逃亡しようとした罪でオペラ座に監禁中」
美しい翼でなければ、パーフェクトではいられない。それを私は、彼と学んだ。
私達の師を見ていれば自然とそうなるのかもしれないけれどね。
【バケーションまで何マイル】
「パパ、いいからお金」
「なんだその口の利き方は」
「ママがそう言えって」
「お前はどこまであの鬼嫁に似る気だ」
休日の昼下がり、庭木への水遣りをしている父に、要求。
「パパ、私、サマーキャンプに行きたいの」
「ほー、ガールスカウト入ってたのかお前」
「とっくに卒業しました。違うの、バレエのサマースクール」
「……はぁああああ?」
まあ、当然の反応。
パパは何日も家を留守にするような仕事柄、娘の習い事が何かすら把握していない。というか、なんでもやりゃいいじゃねえか、とママに丸投げしているから。ママは子育てが夫婦の共同作業、とは思ってない。パパはこういう男なんだって、諦めてしまっている。
だから、私は悲しいとすら思わない。パパだからそうよね、と考えるくらい。
「バレエって、あの、レシーブ?」
「パ・ドゥ・ドゥのほう」
「あれを? お前が?」
「美容の為にいいんですって」
「あー……理解した。お前はついでか」
「正解」
そしてパパは自分の嫁が美人で、自慢であることを充分に理解している。美人のママが、美容の為にというのならば黙って金を出す男。うん、そう、ママはそういうパパが好きなのよ。
「サマーキャンプっつーことは合宿か」
「うん、そう。外国なんだけど」
「出せってか!」
「私の分もね」
たかだか数百キロよ、とパパを慰める。慰めるだけなのだけど。
「ママは婦人バレエの部で楽しくダイエットクラスなんだけど、私は少年少女の部で、コンクール前提のクラスなの」
「コンクールだぁ?」
「うん。先生とママが捻じ込んで」
「見栄っ張りなんだよ、あの女は」
「パパもじゃない」
バレエ歴二年とちょっとの私の申込書を受け入れる方も受け入れる方だわ。なによ、競争率が50倍近いって言ってたのにどうしてこうなったのかしら。推薦書、先生なにを書いたの? コンクールに出て目標がプリマって人たちと同レベルでやれるはずないっていうのに。
でも、まあ、いいチャンスとは思うわよ? 将来のスターの卵たちと知り合えるなんてチャンスないもの。
「お金出してね」
「俺はデルと旅に出るぞ! 今年はたっぷり二ヶ月戻らねえからな!」
「そう。良いバケーションを、パパ」
「畜生」
キュッ、と水道を止めてパパとホースを同時に黙らせて、私は庭から出て行く。
うこれから新しいレオタードを買いに行くの。家の中でバレエ用品のカタログを眺めてるママと一緒にね。
ええ、もちろん、私はパパが好きよ。私とママに甘~ぁい、あのパパがね。
【ハードスケジュール】
局長も粋なことをする――と思っていないのは彼女だけだ。彼女には抱えきれないほどの仕事が集まっている。そのどれもが彼女を指名し、彼女のリポートを必要としているもので、局長命令がなければ彼女はパスポートとコート、それから愛用のファーストエイド・キットを抱えて紛争地域に入っているはずだった。
しかしたまには心を潤したまえ、と言って、彼女の仕事のすべては取り上げられた。
「芸術なんてわかりません!」
抗議の声は隣どころか、フロア中に響いた。彼女の声は大きい。爆撃の中をリポートするためには必要なスキルだ。
「バレエもオペラも見たことありません! わが社の芸術部はそんなに人手が足らないんですか!?」
「いやいや、アルテナ君。芸術の理解は、真の理解はだね」
「興味ありません。全く興味がありません。私の興味を引くものは爆撃機と戦車のキャタピラくらいです」
「それと迫撃砲かい。まったく君はなんという女性だろうか! 私の息子と交際しないか」
「しません」
「なんて無慈悲な。息子は陸軍なんだがね」
「お話は聞きましょう」
「まったく君は素晴らしい。息子にさっそく伝えるよ。レストランを予約しても?」
「カフェならいいでしょう」
……まだ結婚できてないのか、あのどら息子……。
「話がそれました。局長、私に何故バレエの取材を?」
「レヴィン・シレジアの新作だよ。彼は天才だ」
「初めて聞いた名前です」
「おお、なんということだ! 我が国の人間でレヴィンの舞台を知らない人間は不幸だ! そうだな、アリオーン君」
突然話を振られて、飲んでいたミネラルウォーターを吹き零すところだった。なんだこの局長は。
「君はレヴィンの新作に興味があるな?」
「ないみたいですけど」
「いや、あるな、アリオーン・トラキリアス君は! さあ、アルテナ君、君たち二人で我が国の英雄、オペラ座の主人レヴィンの新作をレポートしてくれたまえ! まずはレヴィンが主催するという初のサマーキャンプからだ!」
「いや、私はこれから極東へ取材に出るんですが」
「今決めた」
なんだこのハゲは。
ちらりと彼女を見ると、彼女は彼女にしてはとても小さな声で、同じことを口走っていた。弁護士を紹介しようか、と彼女に言ったら、もう抑えてあります、と返された。なるほど、ヘッドハンティングの噂は本当だったか……俺も出るかな、ここ。
【祝福だけが許される】
おれは贔屓の引き倒しをするぜ! ド近眼には定評がある!
第一声がこれだ。
「だからおれが構わないから才能なしと思うなよ。おれはおれが好きなものが大事なだけだ。技術なりなんなり教えてもらいたいなら、こちらの鬼のマーニャ先生から教えてもらうように。おれは教えない。おれは好きなものを作るだけだ」
選ばれた20人の生徒達への、「ようこそ!」もない。
ド近眼と言い切った振付師は振付師らしくない格好をして、にやにやしていた。まるでパトロンのようにしているのだ。一張羅かどうかはわからないが完璧な着こなしのスーツで、ブリティッシュ・ジェントルマン気取りなのか帽子とステッキを振り回している。
まったく、フュリーはなぜ止めないのだ。毎回毎回なぜ私が恥をかくことになるのに!
「まず! リーンちゃん!」
「……え? あ、はい!」
「おじさんは君のママが好きです。死ぬほど好きです。君のパパなんて大嫌いです。でも君は大好きだよ」
振付師レヴィンがここまで言う人間は、この世で唯一人――つまりは小柄な彼女が、あの妖精の娘。自然と周囲の目が集まる。彼女はうろたえている様だったが、振付師だけは笑っている。
「リーンちゃん、きみ、ね」
「はい……」
「オデットをおやりよ。シルヴィアもオデット好きだったし、俺も好きだし」
「え? でも、今回のプログラムはカルメン……」
「気が変わった」
いつもの「気紛れ」がはじまった。はじまってしまった。
背後で支配人と学校長が頭を抱えている姿が、振り返らずともわかるのだから、困ったものだ。
「気の強い君を見たかったけど、やっぱオデットだ。ジュリエットもいいけどさ。ジュリエットは最近やって飽きたから、オデット。――レイリア!」
「はい!」
「お前はオディール。レスター!」
素晴らしい身贔屓ね。普通、配役は合宿の半ばごろに発表するものだけれど。
セティ、私の甥は涼しい顔をしている。まあ、順当に王子、それでレスターがロットバルトかしら。
「お前、王子ね」
甥が、それだけでなく、背後の役員達の息も、止まる。
「わ、私がですか。ロットバルトの間違いじゃないですか?」
「お前のどこがロットバルトだ。その顔でなに言ってんだ」
「待って、レヴィン。あなた、まさか」
「うん、そう、おれがロットバルトだああああああ!!!」
そう叫んで馬鹿はあの子に飛び掛って、きゃあと叫ばれたくせに勝手にリフトをし始めた。ああもう、なんて勝手なことを! なんて顔をしてるのよ、この真正の馬鹿は!
「シルヴィアがおれと踊ってくれないんだもーん。な、シルヴィア、最終日の発表会来る? 来るだろ?」
「はっ、母は来ますっ。父と弟と一緒に」
「チッ。シルヴィアだけでいいのに」
本人が聞いたら往復でビンタするの、わかってて発言する勇気には感服するけれど……まいったわ。どうしろっていうのよ、このキャンプ。成功するはずないじゃない、こんなめちゃくちゃな。だから肝いりでキャンプ講座を開講するならせめてアイーダの講座にするべきだって、私は何度も言ったわよ!?
「さあ、踊ろう」
あの子を下ろし、レヴィンはその頬にキスをする。ただの挨拶だと思っているので彼女の表情には緊張しか浮かんでいない。いい気味よ。
「踊ろう、それだけが人生だよ、リーン」
ええ、ええ、そうでしょうとも!
振り向くと学校長と目があった。勝手にしてくれ、と彼の目が言っていた。言われなくともそうする。そうするしかしようがないんだから。
【キングダム】
父さんは、あたしが生まれたときすでに王様だった。今も王様。
お城には世界中から見物客がやってきて、ばかみたいな値段の入場料を嬉しそうに払う。
ムッシュ、オートグラフ・ブリーズ!
沢山のペンとメモや花束、チョコレートや、時折よくわかんないものまでが、王様の行進に投げ入れられてた。あたしは幸か不幸か、生まれてこの方、この父親が「真っ当」だと思ったことはないものだから、父親をまるで拝むようにして見つめる多くの人の正気を疑ったものよ。
そして、兄さんへの賛辞についても、同じ。
兄さんは父さんの「王国」を引き継ぐことが夢みたい。本人はものすごーく否定してるけど、ファザコンなの、あたし知ってるし。兄さんは後継者になることを選んじゃった人なのよ。
その兄さんが青い顔をしてる。 帰ってきてからずっと、こう。キッチンにいる母さんを見るけど、母さんは遅い夜食の準備中で、父さんはまだ帰ってない。どこぞで呑んできてるんだろうから別に構わないんだけど。
「辛気臭ぁい」
これ、とキッチンから母さんがたしなめる。兄さんはあたしに微苦笑を作ってみせる。
「なによなによ、どんだけ気位高いのよ。サマーキャンプでしょ、たかが。王子様じゃないからって何、ヘコんでんのよ。ばっかみたい」
王国の後継者なのだから、常に王子様。周囲はそう扱ったし、兄さんにはその才能があるらしく父さん以外の総てが兄さんを王子様にしてあげていた。けれど、今回、父さんはあっさり王子様を他に呉れてやっちゃった、んだって。で、王子様の兄さんは王子様じゃなくなっちゃって、茫然自失、と。
いつだって主役だったのにね。主役じゃなくても目立った役を貰ってたのにね。今回、その他大勢になったんだ。初めて。
今更何よ、とあたしなんかは思うわ。これだから「王子様」だって言われてるのに、ちっとも気付いてなかったのかな。この鈍感。
「そんなに悔しかったらおとーさまに『お願いパパ』って泣いて頼めばいいじゃない」
「それを私がすると思って発言しているのかな、フィー」
「しないの?」
今日の兄さんとあたしの力関係は逆転してる。
青白い顔をして、あたしを黙ってみてる。ほんと、なんて馬鹿馬鹿しいのかしら!
だけど、あたしは決して言わない。絶対に言わない。なんせ、兄さんをこうして馬鹿にできる機会なんてそうそうないんだもの。母さんは聞こえない振りをして、オーブンを覗いてる。そう、母さんにだってわかってんのよ。
(才能の使い方はどうだかしらないけど、使い道が決まってないからそんなにうろたえるのよ)
天才だとか、言われている人間の子として生まれながらよくもここまで鈍感に生きていられたものよ。
(兄さんの王子様はただきれいで完璧なだけじゃない)
それが売りなんでしょうけれど。
兄さんの視線なんか振り払って、キッチンに入る。母さんと目が合う。
(兄さんの横っ面張り倒したくなる人間の気持ちなんて、相変わらずわかんないんだね)
つまり、兄さんは――鈍感通り越して、無神経。
天才だけに許された特権だ、と父さんみたいに開き直らないから余計に反感食うのに。兄さんは気付かない。なにせ王子様だから。父さんがとびっきりの「愛情」注ぐ、王子様なんだもの。
【ストライク=ストライキ】
この街にくるまで人ごみを知らなかった。田舎なんだ、育ちが。
放っておけば一日中窓の外を見ているだけの妹を、叔母は心底心配してバレエ教室に「ぶっこんだ」。自分はおまけで「つっこまれた」のに、今では故郷を離れてこんな大都会に居る。
才能が有ったのだとは思わない。骨格がよかったのだとも思わない。ただ――気が付いたら変な格好をした人の誘いに乗ってしまっていたのだ。ねえ、君、パリ行かないか、という悪魔の誘い。
「細けぇことはいいんだよ」
その人は才能あるダンサーで、才能ある振付師。そして世界最高級の変人だ。
「いいから踊れ」
世界は何で出来ている、という問いに、ゲージツで出来てると答える人は違う。
同じ問いに――愛で出来ている人とも違う。うん、悪魔の子は悪魔の子だ。セティはバレエの世界でしか生きられないように思えてならない。それを運命と受け入れているのではなく、抗うでもなく、むしろ気づいていない様子で、軽々と踊る。
悪魔の子は悪魔で、変人の子は変人。天才の子は天才なのか。
続くよー。
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